紡がれる心

秋風が校舎の隙間をすり抜ける、二年の終わりが見え始めた頃──
鮮やかな紅葉が舞う中、昼休みも間近な休憩時間に冷峰学園でそれは起こった。

藤堂護が廊下で盛大にずっこけたのだ。
それはもう、ものすごい音を立てて。

豪快な音に周囲の生徒たちは一瞬固まったが、すぐに音がした方に一斉に向いた。
転んだ藤堂を見て、数人の女子生徒たちが駆け寄った。

「藤堂く〜ん!大丈夫〜!?」

大企業の、それも普段優雅に振る舞っているお坊っちゃまとは思えない盛大な転び方をしてしまい、内心顔から火が出るほど動揺していた彼だったが、いつもように取り繕いすっと立ち上がった。

「フッ……心配には及ばないよ、レディたち。少々足元を見誤ってしまっただけさ」

髪をかきあげながら彼はそう言うと、女子生徒たちは「さすが〜!」と黄色い声を上げた。
その一方で、興味本位で振り向いた男子生徒たちは、面白くなさそうに冷ややかにそっぽを向いていく。

その様子を少し離れた場所から見ていたのが──藤堂と同じクラスの藤原小百合だった。

赤みがかった淡いピンク色のセミロングを三つ編みのハーフアップでまとめた彼女は、植物委員と手芸部に所属している。
二学期から藤堂と同じクラスにクラスになったのだが、特に接点もない為あまり会話したことがなかった。

そんな彼女は心配する女子生徒と話している彼の後ろ姿をじっと見つめていた。


****


四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、生徒たちは昼休みを楽しもうと、それぞれの場所へと散っていった。

「──さて、ボクもランチに行こうかな」

藤堂はすっと立ち上がり、専属シェフが用意した昼食を求めて食堂へと向かう。
階段の踊り場を通りかかったそのとき──背後から控えめな声がした。

「……ねぇ、藤堂くん」

声の主に振り返ると、そこには同じクラスの藤原小百合が立っていた。

「キミは確か……藤原小百合さんだね。どうしたんだい、ボクに何が用事があるのかな?」

キザな笑みを浮かべて問う藤堂に、彼女は目を伏せ、バツが悪そうにしている。

「あの……ちょっといいかな?」

そう言って、彼女は彼を踊り場の壁際へと促す。
普段の彼女としては意外な行動に、藤堂は思わず目を丸くした。

「おや、キミ……結構大胆なんだね?」

「もう、そんなんじゃなくて……あのね」

小声でたしなめると、藤原はそっと手を伸ばし、藤堂の耳元に口を寄せて囁いた。

「後ろからじゃよく見えないと思うけど、ズボンのお尻のところ……破けてるよ」

その声は小さいながらも真っ直ぐで、彼の胸にスッと染み込んだ。
言われた瞬間、藤堂は凍りつく。
思わず尻に触れると確かに穴のような感触がし、それが現実であることを実感させられた。

「うっ嘘……!? さっき転んだときからってコト……!?」

自分でも信じられない様子で、どこか上ずった声が漏れる。
藤原は申し訳なさそうに、そっと言葉を添えた。

「うん……すぐに伝えたかったんだけど、周りに女の子たちもいたから、あの場じゃ言いにくくて……」

その気遣いに、藤堂は一瞬だけ黙った。

「穴の具合を見た感じ、とりあえず手縫いで応急処置が出来そうだから、今から一緒に被服室に行けないかな?」

「はっはい……!このみっともないズボンのままじゃ耐えられないからお願いします……」

藁をも縋る気持ちでそう答え、藤原に導かれるまま、藤堂は踊り場を後にした。


****


昼休み中の被服室は静かであった。

藤堂はズボンを脱ぎ、藤原が普段使っているかわいらしいキャラクター柄のブランケットを腰に巻いて、彼女がズボンを縫うのを静かに見守っていた。
まるで冬場の女子高生のような出立ちを、誰にも見られていないことに心底安堵している。

一方で彼の視線は、針を動かす藤原小百合の手元に吸い寄せられていた。
手際よく布地をすくい、縫い進めるその仕草に、思わず息を呑む。

「……しかし器用なものだね。手芸部員とはいえ、こういった補修にはかなり慣れているみたいだ」

「運動部の子たちによく頼まれるんだよね〜。望月くんとか特にちょこまかしてるから、制服の補修もよくやってて慣れちゃった」

いつものことのように藤原は屈託なく笑いながら答えた。
“ああ、あの落ち着きのない望月か”と藤堂は内心納得しつつ、彼女の指の動きを見つめ続ける。

「これでよし、と……出来たよ〜!これで穴が目立たなくなったね」

差し出されたズボンの破れは、さっきまで悲しいほど開いていたのが嘘のように、ほとんどわからないほど綺麗に修復されていた。

「……いやぁこれはすごいな。プロ顔負けだよ。キミにこんな才能があるとは思わなかったよ」

「えへへ、そんなに褒めてもらえると照れちゃうな……」

素直な賞賛に藤原は頬を赤らめながら、嬉しそうに微笑んだ。

「とにかく履いてみて」

彼女はズボンを渡し、そっと背を向ける。
藤堂が履き終わったタイミングで声をかけると、彼女はくるりと振り返った。
あれほど慌てていたのが嘘のように、普段通りの彼に戻っていた。

「キミのおかげで誰にも気づかれず、ボクの威厳は守られたよ。本当にありがとう、感謝してもしきれないよ」

「ふふ、当然のことをしただけだよ」

「是非ともお礼をさせてくれたまえ。何が望みなんだい?なんでも叶えてあげるよ、ボクには出来ないことはないんだから」

藤堂は尊大な口ぶりで藤原に語りかけるが、当の彼女はあまりノリ気ではなさそうだった。

「ううん、別にいいよ。特に望みもないし、そんなことしなくてもいいよ」

まさかの返しに、藤堂は「えっ?」と固まった後、思わず素の声で反応してしまった。

「……へ?ないの?望み!?本気で?そんなことあるはずが……」

「私はただ、あなたを助けたかっただけだし、見返りなんて求めてないよ。そういう人間もいるってこと」

彼女の言葉に、嘘偽りがないことが明確にわかるようなそのまっすぐな瞳に、藤堂は言葉を失った。
まるで自分の常識をあっさり超えてきたような、不思議な人間──そんな印象が残った。

「……やれやれ、キミのような人は初めてだよ。でも、このボクに貸しを作ったんだ。
藤堂家のものとして借りを返さないなんて許されないことだ。今はなくとも何らかの形で返させてくれたまえ」

「うん……そう言われたら返さない訳にもいかないね。いつになるかわからないけど考えておくね!」

藤堂の心からの言葉を受け取って、藤原はふわりと微笑んだ。
その直後、何かを思い出したように「あっ」と声を漏らし、ぱっと時計の方へ目を向ける。

「わっ、もう昼休み半分すぎてる……! ご飯食べそびれちゃう〜!」

彼女は慌てて荷物をまとめると、ドアの前で手を振った。

「じゃあまたね、藤堂くん! 今日は本当にお大事に〜!」

「……ああ、また教室で」

ぱたん、と扉が閉まり、静寂が戻る。ひとり残された藤堂は、静かに呟いた。

「……ボクに対して見返りを求めない人がいるだなんて思わなかったな」

その口元に、自然と笑みが浮かぶ。

「藤原小百合さん……か。ボクに借りを作ったうえに、対価も求めない。なるほど──実に興味深い人だ」

その底の知れない無欲さを宿した規格外の存在に出会ったことへの高揚を隠しきれず、藤堂は口角を上げて微笑んだ。
その目には、ただの好奇心以上のものが静かに灯っていた。

──その日、藤堂護の中に芽生えたのは、ほんの些細な興味だった。
だがそれは、“繕われたズボン”のように、気づかぬうちに彼の心の綻びにすっと縫い込まれていった。
そんな密やかな想いと共に、彼は初めて出会った“不確かな何か”を、静かに噛み締めていた。

紡がれる心
2026/01/12 up
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